PICK UP ARTIST
裏返されたぬいぐるみによる私の追体験
愛されるために、自分が自分でいるために枠にはまっていく。そういう自分をその作品に投影していたんだと思います。
(現代美術家 / タネリスタジオ運営)
PICK UP ARTIST
裏返されたぬいぐるみによる私の追体験
愛されるために、自分が自分でいるために枠にはまっていく。そういう自分をその作品に投影していたんだと思います。
(現代美術家 / タネリスタジオ運営)
インタビュー後に、昼食でもと案内してもらったギャラリー併設のカフェ。そこで料理を待つ間に聞いたエピソードが印象的だった。
小柄で華奢な彼女から到底想像もできないエピソードだ。
まさに今ここにいるカフェも、彼女と仲間が1年間かけて改装した。
セルフリノベーションと聞くと聞こえはいいが、その作業は壮絶で、ホコリにまみれて作業するその姿は冗談まじりに「ドブネズミ」とまで言われたそうだ。
彼女との初めての接点は、おかやアートフェスティバルMIX2022だった。
明らかに他と異なる展示ブースをいっぱいに使った彼女の作品は、来場者の目を奪ったに違いない。
精力的に活動する姿に我々が企画するアーティストインレジデンスのオファーを出すのは必然だった。
彼女の作品には、裏返された不思議なぬいぐるみが登場する。
さらに話を聞くと、瀬戸市の廃ビルで制作活動をしているらしい。
裏返されたぬいぐるみに、廃ビル・・・「なんかヤバそうだけど、めちゃくちゃ気になる。」
早速アポをとって、愛知県瀬戸市の廃ビルことシェアスタジオ「タネリスタジオ」に車を走らせた。
タネリスタジオがある瀬戸市は、瀬戸物で有名なツクリテのまち。
1月としては暖かいよく晴れた日。
商店街の一角にあるそこは、どこか懐かしい風情のある街並みに溶け込んでいた。
入口のインターフォンを鳴らすとフードをすっぽりかぶり上着を着こんだ若い男性が対応してくれた。
中に入れてもらうとなるほど。寒い。外のほうが明らかに暖かかった。
ここは、鉄腕アトムが放送されていた時期に建てられた3階建てのビル。
かつては町の電気屋さんが営業していたらしい。
少しすると、ニット1枚の植松さんが出迎えてくれた。この人は寒さを感じないのだろうか。
植松ゆりか。
1989年静岡県生まれ。愛知県を拠点として活動する現代美術作家。 裏返し内側がむき出しになったぬいぐるみで構成させたインスレーション作品をメインに制作する。 陶磁器を素材としたアートピースのアクセサリーも手がけている。 愛知県瀬戸市にあるタネリスタジオを共同で運営する。
主な個展:
2021年 CUT&PASTE 巡回企画展「ほふる園」HOHURU−SONO (金沢アートグミ/ 石川県、Art Spot Korin / 京都府、Maebashi Works / 群馬県)
植松ゆりか展 "Rabbit hole" (L gallery / 名古屋)
植松ゆりか 個展 「STRAY GEEP」 (Art Space & Cafe Barrack / 愛知県)
-ぬいぐるみを使った作品の制作プロセスを教えてください。
「まず、ぬいぐるみのお腹や背中を割いて、中の綿とかを全部出して裏返しにします。 裏返した表面にシリコンを塗ると、ヌルっとした生々しい感じがでてきます。 そして、塗り固めた内側と、戻す部分をつくって、内側と外側がぐちゃぐちゃになっている状態に仕上げます。 そこに後光をつけたり、インスタレーション作品の中には割いた布の中に吊るさせていたり、ロボットみたいに動いている作品もあります。」
-ぬいぐるみを使う発想はどこからきましたか?
「キッカケは、大学の課題でした。 パーソナルとパブリックを表すものを制作する課題の中で、私は、樹脂でぬいぐるみをガチガチに固めて作ったレンガひとつをパーソナルに、それを積み重ねた構造物をパブリックとしました。 そのカチカチになったぬいぐるみを触った時に、フラッシュバックする感覚があったんです。」
「それは、小さい頃に熱がでると毎回同じ悪夢をみて、触覚、視覚、聴覚が変になちゃって、感覚の異常みたいなことが起こっていた体験です。 具体的に言うと、母親の手が本当は柔らかいのに、コンクリートのようカチコチにしか感じないとか、見たものが大きかったり小さかったり、 グアングアンして焦点がさだまらないとか、早い音と遅い音が同時に聞こえちゃって変なリズムになったり、そういう感覚がよくあって。」
「その話をすると、なんだか変なことを言っていると思われる。 この子変なんじゃないかって。 『これは言っちゃいけないんだ』と子供ながらに思っていたことを思い出したんです。」
「そしたら、それが今になってみたら『これ面白いかも!』と思えるようになっていたんですよね。 『これを触ってもらえれば、この感覚だよって伝えられるかも』と思ったのがキッカケで、 自分の言えなかったこととか、自分が忘れていた気持ちとか、モヤモヤしてずっと持ってたものをぬいぐるみを使って外に出すみたいなことをやり始めました。」
「それから、ぬいぐるみが自分の投影になってきて、小さい時の自分のような気がしてました。 愛されるべきものとしてつくられるぬいぐるみは、こどもと共通するところがあるし、中身を変えるだけで印象が変わる面白さもありました。 素材として追及したいと思いましたね。」
―実は、初めて植松さんの作品を見たときは少し重い感じがしてました(笑)
「そうですね。ヘビーな作品だったかもしれないです(笑)」
「最初はコンクリートをぬいぐるみの中に流し込んでました。表面がふわふわだけど、ぎゅっとするとカチカチで重いみたいな。
それを、額縁にガラスをいれずに押し込めて作品にしました。
私の生まれ育った環境が、いわゆる宗教2世のような感じで、生まれた時から、あなたはこうやって生きていきなさいという道筋があったんですね。
でも、それにはまり込めない自分がいて、はまらないと一員として認めてもらえないんじゃないかという葛藤がありました。」
「愛されるために、自分が自分でいるために、枠にはまっていく。
そういう自分をその作品に投影していたんだと思います。」
―その後、何か変化はありましたか?
「ぬいぐるみを通してモヤモヤを外に出すのに慣れてきて、今まで言えなかった気持ちを言語として育った環境に関わった人たちと話す機会を持てました。 対峙していくについれて、喧嘩をすることもありましたけど、お互い理解が深まった感じはありました。」
「そうすると、次第に作品の内容も変わっていって、ぬいぐるみの内側を外にみせるようになっていたんですね。 内と外が混在している感じに。そこに後光をつけたくなったんです。 隠すべきだと思っていた醜さや不完全さを持ち合わせていても'よし'としよう、受け入れて祝福しようって。 それで、後ろに後光がついているシリーズが生まれました。」
「最近は気持ち的に モヤモヤして嫌だなって思っていたものを外に出していたのが、 ピュワな気持ち、前向きな気持ちを出せるようになってきたかなって思います。後光の位置も変わってて、ぬいぐるみの下、台座になって浮いていて、後光にのって飛んでいくような感じに。 もはや後光が乗り物になっちゃってます。(笑)」
―制作拠点であるシェアスタジオのタネリスタジオについて教えてください。
「2017年から初めて、今年で5年目になります。 最初は、代表の設楽陸さんと2人で始めました。現在は、20名くらいの作家が所属しています。 設楽さんとどう使っていこうか話していた時にお互い作家活動をずっと一人でやってきて、なかなか作家がアトリエを借りて、自宅も借りて、仕事もして、作品も作ってってなっていくと難しくて。 それで離れていく作家仲間もいて、助け合える場所ができたらいいねって話をして、みんなで使える場所にしようってことで始めました。」
「もともと瀬戸は作家が多くて、美術の大学もあるので、卒業した作家がアトリエを構えたりしてましたど、まとまっているとこは少なかったんです。 もし、ギャラリーとかカフェが同じ場所に入ってくれると、外向けの発信もできるし、作家のコミュニティの場所にもできればいいなという考えがありました。」
―個性豊かな作家同士が集まると思うのですが、注意していることはありますか?
「あなたの場所はここからここまでというように、キッチリ仕切ると難しいかな。 もっとその都度相談しながら、変えながらやるのがいいとかなと思ってます。 ある程度のことは決めるけど、なんか困ったらみんなで相談しようってしてます。 近くの人に相談できるのは気持ちとしても安心できますね。」
―今後の展望などあれば教えてください。
「一回ぬいぐるみにマシンをいれて動かす作品を作った時にいいなと思ったので、これからやっていきたいなと思っています。
まだまだ勉強中ですけど(笑)
「あと、ぬいぐるみ一体で完結させる作品が多くて、ぬいぐるみ同士の関係性がなかったんですね。
ぬいぐるみを動かした時の作品は、ぬいぐるみ同士の関係性が親子だったこともあって、ぬいぐるみ同士の関係性を含めた作品を実験的に作っているとろです。」
昼食を終えて、写真撮影をしている時に、タネリスタジオの由来を聞いたみた。
諸説あるようだが、宮沢賢治説の話が印象に残った。それは、宮沢賢治の童話「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」にちなんでいるというものだ。 誤解を恐れずに超ザックリあらすじを解説すると、
”主人公のタネリは、母親から藤のつるを噛む謎の仕事を与えられていた。 タネリが藤のつるを噛みながらも外でなんだかんだ遊んで帰宅した。 するとせっかく噛んでいた藤のつるをどっかに落としてしまったことに気づき、母親から怒られてしまった。 ただ、タネリが「うん、けれどもおいら、一日噛んでゐたやうだったよ。」というと、母親は「そうか。そんだらいい。」と、それ以上咎めることはなかった。”
というような話だ。
作家活動において、プロセスに対して結果は必ずしも出るものではないけれども、そのプロセスそのものをタネリの母親のように温かく見守る存在でありたいという想いが込められているのでは。とのことだった。
真実はどうであれ、この話を聞いた時、きっとタネリスタジオにとっての母親役は植松さんなんだなと感じた。
自身の内と外の問題に向き合い、折り合いをつけ、さらにそこから、自分の外周での出来事に、寛容にそして柔軟にふるまう。
もし今、パーソナルとパブリックの課題を与えられたとしたら、彼女はいったいどんな作品を作るのだろうか。
取材の全工程を終えたところで、植松さんに瀬戸の町を少し案内してもらうことになった。
焼き物の資料館を案内してもらったのだが、その行く先行く先で、「タネリスタジオの植松さん」と声をかけられていた。そこで出会った人が言っていた。
「最近は、瀬戸で何かを始めようとする若い人が増えてきていてうれしい。間違いなく、植松さんたちのタネリスタジオがキッカケをつくった」と。
少なくとも彼女のアートへ情熱は、確かな熱量となり、この街に、そして我々にも波及している。
今後この熱量は、もっと多くの人、街に伝わっていくに違いない。